吾清霊社(元畑神社)
JR久大線豊後森駅から西北の方向に小高い台地がある。
陸上自衛隊玖珠駐屯地となっている上の原台地である。その北の詰に元畑の台地がある。ここに豊後森藩時代から「元畑様」と呼ばれた吾清霊社がある。無実の 罪で葬られた豊後森藩士村上兄弟(はじめ四藤の姓で藩公ら村上姓を賜る)の鎮魂社である。
その由緒として次のように語られている。
宝永年間(1704~1710)
森藩主第三代通清公の時代、公が参勤交代の途上、野武士の一群らしい賊徒に襲われ危機にさらされた時、村上兄弟が駆けつけこの危難を救う(他の説もあ る)。通清公大変感謝して兄弟を藩士として召し抱える。二十歳前後のこの兄弟はめきめきと頭角を現し、若くして家老と同等の禄を受ける。
藩主から寵愛をうけた村上兄弟は、ある十五日の名月の日を選んで藩主を招いた。はじめお成りを約束していた藩主は反村上派の重臣によってさえぎられる。 「せっかくの料理」と思ってその翌日献上すると、その料理に毒が盛られていたとのことで、反対派の術中におち、切腹を命ぜられる。
宝永六年(1709)十月二十六日、大乗寺で切腹する。ところが、切腹後、兄弟の乗った馬が城に向かっていた、またはかまをつけて廊下を歩いていたなど、 ″兄弟の亡霊の噂が立つ″。この兄弟を無実の罪に落とした首謀者、得能伝兵衛は半狂乱になり、嵐の夜、落雷にうたれて死ぬ。次々に起こる城中の変事に、藩 主は兄弟の罪を再度確かめた。
そして、無実を知る。藩主は深く後悔して兄弟の霊を慰めるために社を建立する。
以上は語り伝えの概要である。
史料らしきものは社にも、藩にも残されていない。明治二十六年十二月、初めて町制がしかれた折、推されて初代町長になった江藤孝本翁は、『久留島公略伝』 などを著した藩士出身の史家である。翁は、この略伝の中で、第四代通政公にかかわる村上兄弟の事件に関して次のように記している。つまり、
罪 名は一の伝これあるも跡書の徽す可き者はこれなし。口碑は信ずるに足らず。新参者の寵遇栄進。当時の重臣共が排斥す るところ(中略)切腹後祟りをなす旨を以って、島五郎左衛門藩公の命を蒙り上京。吉田家に就て神霊御請。享和二年(1802)九月五日、当時四藤家の下屋 敷たる元畑の声和山に霊社を造営せり
と。
時は五代将軍綱吉の時代。幕藩政治が武断より文治に向けて組織が整えられていく時期である。農村、都市経済のあり方、そして、藩財政のあり方などが
新たな展開期に入る。小藩の苦悩から引き起こされた事件ではあるまいか。
玖珠川歴史散歩 玖珠郡史談会編