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八幡小学校より、全校平和集会に対する講師派遣要望がありました。 太田の西野克子さん、秋好喜八郎さん、星野文夫さんに講師依頼致しました。
12月13日、八幡小学校で全校平和集会が行われ、お招きした地元の方々が各々の戦争体験を語りました。
西野さんが戦時中、食べていたご飯を再現してくれました。これを1日に数人で割って食べてたそうです。
1、2年生は西野さんが低学年にも分かりやすいテーマで戦争体験を語ってくれました。 若い人は戦争に駆り出された為、女・子ども・年寄りが中心となって稲刈りや麦刈りなどをして働いていた事や、八幡小学校のグラウンドを開墾して芋を植えていた事等を話してくれました。 また、おじいちゃん、おばあちゃんに戦争体験を聞くと、もっと詳しい事が分かるので、ぜひ聞いてみて下さいと話していました。
3、4年生は秋好さんが衣食など身近なテーマから戦争体験を語ってくれました。 大東亜戦争が始まった年、秋好さんは尋常小学校2年生でしたが、食べるものが無く、いつもひもじい思いをしていて、粟飯や唐芋ご飯、麦飯(米は2割)などにたくわんや味噌漬けがおかずだったそうです。唐人干し(目刺)などはいつ食べたのか思い出せないほど貴重品であり、柿などの生り物は全て取って食べていたそうです。特に不味かったのが小麦の殻やカスだけで作った焼き餅で、喉をこする食感が今でも忘れられないとの事です。 服なども何ヶ月かに1回、1クラスに2~3着の配給があり、クジ引きで貰える人を決めており、当選した時はとても嬉しかったそうです。 また、ほとんどの人が素足で、中にゲタや草履や、足半(あしなか)と呼ばれるかかとが出る草履を履いている人がいたぐらいだったそうです。
5、6年生は星野さんが自分の軍隊生活の経験を中心に戦争体験を語ってくれました。 星野さんは鹿児島県出水海軍航空隊、長崎県佐世保海兵団、山口県岩国海軍航空隊などに整備兵として所属していました。海軍は食事に白米が出たりなど、陸軍に比べると待遇は良かったそうです。(しかし、18、19歳の育ち盛りの若者にはそれでも足りなかった為、空腹時には、小麦などの糠をふるいにかけてこして、焼いて食べていたそうです。) 出水海軍航空隊では2、3期生と早い時期であったため、寝所が陸軍のような平屋だったそうです。 佐世保海兵団では、出水での暮らしが平屋だったため、吊り床(つりどこ、ハンモックの事)のかけかたが分からず上官に叱責されたそうです。 岩国海軍航空隊では、朝は4時に起床して、6時~8時に飛行訓練を行い、訓練が終わったら飛行機を山の谷間にある格納庫に隠すという活動を終戦まで続けたそうです、飛行機を移動させる時はワイヤーで3機ほど引っ張るのですが、尻尾に1人と右翼と左翼にそれぞれ2人ずつの計5人がかじ取りをしていました。また、昭和20年の4月から6月までは隧道(ずいどう、トンネルの事)掘りばかりしていて、隧道で寝ていたそうです。(海軍の整備予科練だったのに隧道掘りばかりをしていたので上官から「ドカレン」と呼ばれていたと言います。)休日の楽しみは食堂巡りで、広島の食堂などに出向いていましたが、米を出す食堂は無く、オカラが1円50銭、その他野菜のおひたしなどが出されていたそうです。(当時の海軍の月給は上等兵で17円50銭、兵長で20円50銭。やめた時に上等兵は退職金として70円支給されたそうです。)
戦後66年経ち、戦争体験者の証言、特に従軍者の証言はとても貴重なものになってしまいました。今がこのような証言者の話を聞く、最後の機会だと思います。戦争の記憶を語り継ぐためにも戦争体験者の話に耳を傾けてはどうでしょうか。
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